《四国心意練習会》

初めまして初心者です。乱文ご容赦下さい。
戴氏心意拳を練習しているものです。
今は一人で練習していますが、人を集めたい状況であります。
心意や、色々思うまま何かあげていきたいと思います。興味あったらみてください。初めてなのでゆる〜い感じで、リラックスしながらやっていきます(^^)

武術

この武術に関しましては、ぱっと見は地味です。派手さはなく、びっくりすると思います。拳を振り上げ、回転しながら斬り込んだり、ワイヤーを使ったワイヤーアクションのような事はしません。

派手さは人目によくつくので、かっこよく見せたりするのがありますし、展示の際にも、やはり映えます。例えば、歌舞伎ですが、あまり学はないのですが、歌舞伎は一挙動一挙動がとても大きく魅せています。大見栄を切るというような事もいいますし、とかく、映えるようにはそういった動きにならざるを得ないと思われます。

しかし、この武術に至っては派手さはありません。必要ないのです。見せないというかなんというか…わからないと思われます。理解等々するのに、非常に時間がかかります。英才教育でもないので、時間はかかります。お手軽感はありません。リラックスしてまったりですが、そういった体育的な厳しさというものではない厳しさがあります。わからない人はわからないし、わかる人はわかる、そういうものです。

まぁこうゆう話はおいおいぼちぼちと…


あと、よく中国武術や日本武術でもよくあるんですが、気で人を倒すとか治すとかがあります。

治った!なんて人がいるにはいるから、その人はその人で治ったのでしょう。治ったのならいいです。

気で倒した!バタバタと倒れる弟子達がいます。気だというのだから、それは気で倒されたのでしょう。そう言い切るのなら、それはその人にとってそうであって、僕や皆さんが違うという必要はありません。その人はあるんだから。

しかし、では気ってなんなんでしょう?恐らく大概が、生体的な、底から生まれる…大地と天からの…とかありがちな事をいうのでしょう。

バカをいうんじゃないよ!といいながらも、目の前で弟子たちがバタバタと倒れるのを見れば、信じてしまう所もあるでしょう。弟子がよく集まってます。ウハウハでしょう…いいなぁ…


ここで大事なのは弟子にやっていたと言うことです。これは聞いた話ですが…では、熱心で真面目で冗談なんか一切きかない青年がきて、青年が弟子ではなく、僕に技をかけて下さい!と懇願された時、その所謂、気の達人はどうしたのでしょう?

…色々考えられますが、まぁ結果的にかけてもびくともしなかった、そのあと今日は調子が悪かったと言ったそうです。

聞いた話ですし、実際に見てはないのですが…

達人は調子が悪かったのでしょう…真意はどうかわかりませんが…

こうゆう手の事は多々あります。


僕がしているのは、こういった気で倒すとかいう武術ではないです。かなり実に則すというか、合理的で、現実的なものです。

気は概念的な、そんな感じのものです。大きく捉えています。エネルギーというか…空気とか何々気とか、そうゆうものを、大昔の中国の方々が存在をあらわした…そうゆう感じです…うまくいえないですが…伝わってなかったらすいません


気で倒す、治すとかは具体的に科学的に実証出来れば納得できるのでしょうが、物理法則といいますか…これを越えて、倒すなりなんなりというのはちょっと眉ツバものであります。

ドラゴンボールのZ戦士達のように、物理的な破壊するような力かつ、目で確認できるものなら、それは認めるべきでしょう…まぁどうでもいいですが…

ちなみに、このバタバタ倒れるとかのは、催眠術と同じもんです。


それだけ、触れずにとか、未知で神秘的なものは信じたくなるのでしょう。何かにすがる、救われたいとか思う人は全然少なくありません。

でも、近づいて、接しない事には、いつまでたっても人とは近づけません。

近づくまでの過程が難しいのですが。

それは非常に大事な所です。

そうしたいという人ならそれはそれで良いのです。そうじゃないと思うなら思うのでいいのでしょう。

何度もありますが、お手軽感はありません。工程というか、そういったのは時間をかけていくといいますか…そうゆう所こそ、まったり…リラックスです。時間感覚も大事であるように思われます。


毎度、駄文失礼致しました。

駄文ですいません…

よく最強の格闘技とは!とか、異種格闘技とか、そういった史上最高を決めるといったような番組や、そういった気の書籍等々あります。

何かがトップで、競り合うような世の中でもありますし、そうゆうNo.1をとかく人は欲しがります。観客も湧きますし、楽しいものです。楽しいものには人はたくさん集まります。羨ましいものです…。

さて、何かを始めるには何か目的があります。よくあるのに、強くなりたいとか、強くなって見返したいとか…動機としては十分だといえるでしょう。きっかけがないと動けません。何か目的を自分に課さないと人は動かないものです。

では、強くなるとはなんなんでしょうか?身体だけでしょうか?それとも精神でしょうか?

動機としては十分ですが、理由としては曖昧です。

子どもに強くなって欲しいから、礼儀を身につけさせたいといって、空手やらなんやらを習わせる方もおられます。

子は強くなりたいと願ってるのでしょうか?

礼儀は親では教えきれないのでしょうか?

強くなってどうなりたいのでしょうか?具体的にどう強くなりたいのか、こうゆう具体性は重要かと思われます。ダメではないのですが、詳しいものがないと、辛くなってきます。

最強の話に戻りますが、では、最強とはなにを持って最強と判断されるのでしょうか?打ちのめして、相手を立てないくらいに追い詰めれば良いのでしょうか?そもそも、叩きのめすのは何の理由からそうなるのでしょう?異種戦などは、ルールや技術がまるで違うのに、なにをもって判断するのでしょうか?勝ち、負けで強さ、弱さが決まるのでしょうか?勝敗が色んな事において、判断の基準になっていますが、あくまで、結果です。全てをそれで断定などもったいなくはないでしょうか…

生と死の中で、武術は生まれています。単に勝ち負けとかの世界ではなく、生きるか死ぬかの世界です。生き死にに順位や順列もありません。

最も優れているといってしまえば、そうなっちゃうのでしょうが、完結して良いというものではないような気がします。

俺が、私が最強だ!という方がいれば、その人は最強なのでしょう。本人がそうなのだから。まぁ、ある意味これくらいの自信も欲しいところではありますが…

単に強くなるというより、なんというか、過程のようなものが大事に思います。計画性というか、大筋、流れのような順序立てたものが必要になってくるかと思います。

やはり、基本や基礎から順を追わないと、全てに置いてうまくいかないように思います。

また、絶対にとか、必ずとかいった気持ちを奮い立たせるものもありますが、そういった気持ちも素晴らしいと思います。が、基本的に弱者が強者と渡り合えるようになるのも、術と冠する所以でありますので、絶対にが、自分を痛めつけてしまう要素も孕んでおります。心や思いは己でうまく付き合って、合わせていかないといけないと思われます。

ちなみに僕も当然弱者です。弱者故に、それをどうにかしようという事ができるんです。俺は強いんだって人はそれはそれで良いのです。臆病でもいいと思います。臆病なら臆病で、人をよく見れたりします。危ない事はしないので、危機を回避できます。それは素晴らしいと思うのです。

…つらつらとごちゃごちゃになったような気がしますので…つまり、別に強いとかそうゆう人はそれでいいのですが、かといって弱くても構わないのです。一番怖いのが、何もしないという事だと思われます。変わらないというのが、法則というか、あらゆる事からもあり得ないような気がします。これでいいんだ…といってしまえば、それはそうなってしまいますが、自己完結してしまうと終わってしまいます。心と意は動きを与えます。なにもでかいことをやるのではなく、ちょっとした事でも動きを与えます。こうゆう一歩踏み出すというのは、非常に怖く、恐ろしいものですが…なにも飛び込まなくていいので、一歩ずつ着実に歩いて行けることが重要だと思われます。

絶対No.1で、競り続ける世界も重要な場合もあるかとおもいますが、力を抜き、心身をリラックスしながら…というのも非常に大事かと思います。


駄文失礼致しました…

練習仲間募集中!

練習というか、一緒に雑談でもしつつ、まったりとしたいと思っております。

中武の良いとこは、単人練があり、それができるとこは良いのですが、対人がいないと、バーチャルになり、なかなか本物の人の動きというのをわかりかねるというか、実証の段階になかなかいけないということがありえます。何か教えるついでで、やりたいなと思います。

わたくしは、今香川県に住んでおりまして、近い人がいれば、興味ある方がいれば幸いです。なかなかに、武術というものが、浸透しにくい世の中ではありますが、この心意は、一味他の武術とは違います。六代伝人北西先生の元、練拳しております。ピピっと来た方は、よろしくお願いします。